
否、何よりも不可解だったのは、ウィルスが急速に蔓延して、感染しても発症しない人間たち(=ノクス)が、自ら地下に高度な文明社会を構築し、ウィルスに抵抗力の無い人間たち(=キュリオ)を地上に置き去りにて、支配しているという構図だ。今の常識では感染者を隔離するのに、本作では感染者が免疫のない人々を隔離している。それが、神木隆之介×門脇麦 W主演の「太陽」という映画だ。
それにしても、何というパラドックスだろうか!! 門脇麦が出演したというだけで観に行ったばかりに、映画を見終わっても釈然としない思いが残った。なぜ感染者が日光に当ると、炭のように丸焦げになってしまうのか?映画の中で一切説明は無いが、それもウィルスが原因なのだろう。そんな決定的な弱点があるにも拘わらず、免疫の無い人達を支配するのは変じゃないか?
すなわち、免疫の無い地上人が、感染を恐れて地下人との接触を避けるなら、理解できる。だが、映画の中では、地下人が地上人との交流を制限している。なぜなら、地下へ通じるゲートは、地下人が監視・警備している。どうやら、地下人は地上に文明社会が再興される事を好ましく思っていないようだ。それどころか、死なない程度に食料や物資を提供して、地上世界まで牛耳っている。
こんな未来が成立したのは、感染者に富裕層や科学者が沢山いたとしか思えない。そういう奴らは、決まって自分達の優位性に固執する。そんな輩の発想は、もっともらしい理屈で固められた悪知恵ばかりだ。正直者がバカを見た典型的な結末を見せられているようで、見ていて不愉快な気持ちになった。
だが、何不自由ない地下社会の中にも、地上への憧れを抱いている者がいる。逆に、地下の裕福な生活に憧れる地上の人間もいる。理不尽なパラドックスへの憤りから、親しくなった地下人を日光に晒して殺してしまった地上人もいる。そのせいで、地下社会から十分な支援を受けられなくなって、村全体がジリ貧生活を強いられる。それが、本作の舞台となった山村だ。
神木隆之介が演じた奥寺鉄彦は、地下社会に憧れて志願したが、選考に漏れた。村人で選考を通過したのは、門脇麦が演じた生田結だった。父親(古舘寛治)が密かに申し込んだのだ。彼女は父親と二人暮らしだが、母親(森口瑤子)はまだ年齢制限が緩かった時代にノクスに転換し、地下社会で暮らしていた。そんな母への反発もあって、キュリオだけの力で村を復興したいと願っていた。
実は、結婚相手さえDNAレベルの相性で決まるほど科学的に進んだ地下社会も、出生率の低下という深刻な問題を抱えていた。そこで、地上に住む20才までの男女に、ノクスに転換して地下社会で暮らすチャンスを設けていた。
初めのうちはノクスになる事を拒んでいた結だが、父親の想いを知り、母親の説得に心を動かされ、ノクスに転換する。ある夜、母親に連れられて、父親に会いに来た結は、ノクスになって良かったと伝える。それどころか、ノクスに対して抱いていた反感が、無意味な偏見だったと告白する。
一方、ノクスの門衛=森繁(古川雄輝)と親しくなった鉄彦は、彼の地上への憧れに賛同して、二人で地上を旅する事にした。もちろん、昼間は鉄彦が、夜間は森繁が、クルマを運転した。
結のノクス転換やキュリオの鉄彦とノクスの森繁の旅に、ノクスとキュリオが対等に協力し合う未来を期待せずには居られなかった。それ以上に、その後の鉄彦と結が気になって仕方なかった。何とも呆気ないが終わり方だったが、それだけ余計に後を引く。
原作は劇作家・前川知大の戯曲で、蜷川幸雄演出で上演された事もあるらしい。舞台演劇だと、いとも簡単にストーリーに呑み込まれそうだ。だが、具体的な風景をバックにした映画だと、パラドックス的な設定に違和感を覚えた。SunHeroだけが受けた印象ではないと思う。
9月には、東京で再上映されるそうだ。麦ちゃんがノクスへの転換施術を受けるシーンだけ、もう一回観たい気もするが、10月には商品化されるそうだ。オマケ映像が色々見れるなら、買った方がお得かもしれない。
この記事へのコメント