
その後、いわゆる名画座と呼ばれる旧作専門の映画館でもう一度観たが、終盤に向けて集中しようとすればするほど眠気が襲ってきて、気が付くと上映は終わっていた。その後、レンタル・ビデオで観たり、廉価なDVDが出ているのを知ると、迷わず購入して観た。やはり、こういうときは短編であっても、封入解説書が理解を深めるのに役立った。
そして、「インターステラー」の公開と呼応するかの如く、2014年10~12月に開催された英国映画協会(British Film Institute=BFI)の“Sci-Fi: Days of Fear and Wonder”というイベントで、「2001年宇宙の旅」のデジタル・リマスター版が上映されたそうだ。ご丁寧に新しい予告編まで制作された。今やすっかり2001オデッセイスト(?)のSunHeroは、これも神の啓示なのか?と不思議な気持ちになった。
Gigazine:40年ぶりに映画「2001年宇宙の旅」の新予告編が公開される
もうお判りでしょうが、難解すぎて何回も観たくなる映画の最新例が「インターステラー」だ。日本では父娘の深い情愛を描いた作品として、盛んに宣伝されていた。案の定、一大SFスペクタクルの主軸に親子の絆を据えた本作を、「SF部分が難解すぎて、SFと家族愛の両方を描こうとすること自体に無理があったのでは?」とか、「色んな映画のパクリばかり」といった主旨の、批判的な感想をあちこちで目にした。
確かに、クーパー・ステーションは「エリジウム」に登場するスペース・コロニーに似ている。また、少年野球で高く打ち上げられたボールが、頭上の民家の窓ガラスを割るシーンには、違和感を覚えた。あの場面だけ、ステーションが極端に小さく思えたからだ。
全体像をちゃんと見せてくれないから、宇宙艇の格納庫と住民の居住地が、頭の中でサイズ的に繋がらないのだ。恐らくそこまで描いたら、確実に3時間超えの長大作になってしまっただろう。パッケージ・ソフトが発売されれば、何らかの形でクーパー・ステーションの全貌が明らかになるかもしれない。
SunHeroは、そうした細部の問題点など気にならないほど感銘を受けた。例えるなら、「2001年宇宙の旅」の21世紀版というか、正当なリブート作品と感じた。あれから40年余り、科学技術の進歩により、地球環境が悪化する一方で、宇宙研究は成果の一端が最新映像技術という形で映画に反映されるようになった。そうした状況を踏まえて、アーサー・C・クラークの一連の著作を再考した成果、例えば今世紀中にでも、人類が直面しそうな存亡の危機を描いたと感じた。
というか、一足先に公開された「ノア 約束の舟」や本作と入れ替わるように公開になる「エクソダス 神と王」など、人類存亡の危機を描いた作品の公開ラッシュだ。他にも、「スノーピアサー」のように僅かに生き残った人間のせせこましい格差社会を描いたり、人間に代わって地球を猿が支配する「猿の惑星」のリブート作品が公開されている。
題材を聖書に求めたり、SF小説に求めたり、年代的にも過去から未来まで様々だが、根底にあるテーマは「人類存亡の危機」だ。とりわけ本作が凄いと感じたのは、パクリ批判も覚悟の上で、先人のSF映画を踏襲してしまったことだ。
すぐに思い付くだけでも、再三触れている「2001年宇宙の旅」をはじめ、1984年公開の続編「2010年」、1979年公開の「ブラックホール」、最近の例なら2013年の「エリジウム」が挙げられる。科学的考証に基づくと、既に先人が描いてしまったものに似てしまうのは不可避だったのだろう。
≪科学的考証を踏まえた解説は、映画製作の裏話共々、ナドレックさんが「映画のブログ」で分り易く述べています。そちらを参照して下さい。≫
≪もっと専門的な解説がご所望でしたら、「k.onoderaの映画批評」の『インターステラー』視覚化せよ!ブレーンワールドという記事が参考になると思います≫
同時に、壮大なミッションを完遂するには、エゴにも似た個人的な強い願望が必要だということも描いて見せた。「ラザロ計画」の第一陣として宇宙の彼方へ派遣された12人の科学者の中で最も優秀なマン博士も、結果的に人類を救ったクーパーも、一見相反する行動の根底には、至極人間的なモチベーションがある。任務遂行という観点からすれば、前者は完全に逸脱した行為というだけの話だ。一方、死をも覚悟したクーパーには、娘との再会という、ご褒美が与えられる。

従って、「インターステラー」は、先人が映像化した未体験な事象を踏襲しながらも、その先へ一歩踏み出した作品だと思う。前述のような数多のSF作品のおかげで、科学的考証の説明は一切省いて、人類の行く末をヒューマン・ドラマの体裁で描いてみせたからだ。
大作に相応しく、主演が「ダラス・バイヤーズクラブ」でアカデミー主演男優賞を獲得したマシュー・マコノヒー、共演には「レ・ミゼラブル」で同助演女優賞に輝いたアン・ハサウェイ、「ヘルプ~心がつなぐストーリー」で同助演女優賞を受賞したジェシカ・チャステイン、四角柱を並べて繋げただけの無味乾燥な外見ながら、いざとなるとふなっしー張りの活躍をするロボット=TARSの声と動作には、「バージニア・ウルフなんかこわくない」でトニー賞男優賞に輝いたビル・アーウィン、ノーラン映画の常連マイケル・ケインなど、錚々たるキャスティングだ。
娘マーフィーの子供時代を演じたマッケンジー・フォイの熱演も注目だ。彼女は、今年末公開予定のアニメ「リトル・プリンス 星の王子さまと私」で、主人公の声を担当しているそうだ。「マレフィセント」で相変わらず可憐なお姫様を演じていたエル・ファニングとは好対照な印象だが、今後の活躍が楽しみだ。
そして、NASAの「ラザロ計画」の総指揮を執るブランド教授を演じたジョン・リスゴーの出演は見過ごせない。彼こそ、例の続編「2010年」でHAL9000の開発者=チャンドラー博士を演じていた張本人だからだ。クリストファー・ノーラン渾身の作品だけに、実にニクいキャスティングだ。
それにしても、こうも立て続けに人類存亡の危機を描いた映画が公開されるのは、一体どういうことなのだろうか?見た目は違っても、描きたい事のベクトルは同じだ。人類はそう遠くない将来に滅亡する。地球の環境悪化の責任を問われる日が確実に近づいている。映画を通して警鐘を鳴らしているかのようだ。ならば、誰がそうさせているんだ?
最後に、映画が余りにもインスパイアリング(エキサイティングやインプレッシブよりも強い感銘の表現)だったため、1回観ただけでは掌握しきれず、年が明けてから、もう一度観に行った。逆に、書きたいことが増えてしまって、正直言ってまだまだ書き足りないのだが、一応感想文らしい体裁になったので、掲載することにした。
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