R.I.P. for the musicians who passed away (May 2025)

SunHeroの音楽生活に何らかの関わりがあった方々が、またお亡くなりになりました。一括りにすることは大変失礼だと重々承知していますが、故人の活躍を振り返りながら、ご冥福をお祈りしたいと存じます。
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Jill Sobule (January 16, 1959 – May 1, 2025, aged 66)



コロラド州デンバー出身。1990年にTodd Rundgrenがプロデュースしたアルバム “Things Here Are Different” でデビューした遅咲きの女性シンガー・ソングライターで、人権活動家でもあった。"Too Cool To Fall In Love" がAdult Contemporaryチャートで17位まで上がったが、アルバムはランクインしなかった。

ファースト・アルバムがヒットしなかったことから、翌年Joe Jacksonをプロデューサーに迎えたセカンド・アルバムは、MCAに発売を拒否された。1992年にはWendy & Lisaとの共同作業でアルバム制作に取り掛かったが、どうやら完成を見ずにMCAから一方的に契約を解除された。

そんな彼女に救いの手を差し伸べたのが、Atlantic傘下のLavaレーベルだった。1992年に制作した楽曲から新たにレコーディングし直した3曲を含む、実質的なセカンド・アルバム “Jill Sobule” が、1995年にリリースされた。



レーベルの積極的な宣伝と全米各地を回るツアー(その多くは誰かの前座)、そして、90年代中盤に起きた新たな女性シンガー・ブーム(Lisa Loeb、Alanis Morissette)に乗って、シングル "I Kissed A Girl" が、初めてBillboard Hot 100にランクイン(最高位67位)した。

同曲は、LGBTQ+をオープンに取り上げてチャートインした最初の曲だと言われている。ところが、2008年にKaty Perryが同名異曲の大ヒット(全米7週連続1位)を放って、センセーショナルなデビューを飾ったため、Sobuleは汚い言葉を並べて罵倒したそうだ。

更に、同アルバムに収録された "Supermodel" は、ティーンエイジャー向けコメディ映画に起用され、ガーリーな女性たちにカリスマ的に持て囃されるようになった。



こうして知名度を上げたことで、日本でも再プッシュされることになった。そもそも、MCAもArlanticもワーナー・ミュージックが販売を担っていたため、続く3作目 “Happy Town” まで国内盤が発売された。

21世紀に入っても精力的に音楽活動を展開し、人権活動家として女性の地位向上運動を積極的に支援した。自主レーベルを立ち上げてアルバムを発表し続けられたのは、CMJ(いわゆるカレッジ・チャート)での人気が後押しとなっていた。

細々ながらも着実に自分の音楽を追究していたSobuleだが、翌日に故郷デンバーでの公演を控えて、ミネアポリスの友人宅に滞在中、住宅火災に巻き込まれて66歳で亡くなった。最期までセンセーショナルなアーティストだった。
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Roger Nichols(September 7, 1940 – May 17, 2025, aged 88)



モンタナ州ミズーラ出身のRoger Nicholsは、1970年代にPaul Williamsとの共作で数々の名曲を世に送り出した。このコンビの楽曲にポテンシャルを感じたRichard Carpenterは、Carpentersの2作目から4作目に架けて4曲を取り上げて、3曲がシングルになった。内2曲はTop3ヒットとなった。



同時代にThree Dog Night(3DN)が取り上げた "Out In The Country" も、Top10ヒットになった。3DNのヒット曲で日本で最も親しまれたのは、恐らく「オールド・ファッションド・ラブ・ソング」だろう。ただ、これはWilliams単独の作詞作曲だった。



もちろん、Nicholsも他の作曲家と組んで放ったヒット曲がある。1976年に全米7位のヒットを記録したPaul Ankaの "Times Of Your Life" だ。Carpentersの「愛のプレリュード」が元々は銀行のCMソング(ジングル)だったように、この曲もその前年にコダックのCM曲として、Ankaが歌ったものだった。



Nicholsも1968年に “Roger Nichols & the Small Circle of Friends” というアルバムを発表しているが、本国ですら全く売れなかった。当然日本盤など出ることもなかったが、大滝詠一がどういう経緯でこのアルバムと出合ったのか、1970年頃に自身のラジオ番組で度々取り上げていたそうだ。

それが伏線となったのか、1987年に長門芳郎の監修でポニー・キャニオンから世界初CD化された。このCDの解説をピチカート・ファイヴの小西康陽が手掛けていて、90年代の渋谷系と呼ばれた音楽の源流のひとつになったと言われている。



これがキッカケとなって、1995年には Roger Nichols & A Circle Of Friends 名義で「ビー・ジェントル・ウィズ・マイ・ハート」が、日本のみで発売された。更に、2007年には再び Roger Nichols & The Circle Of Friends 名義で “Full Circle” というアルバムが発表された。残念ながら、SunHeroは後者の存在を知らなかった。

2023年頃にパーキンソン病を発症し、5月17日に自宅で亡くなった。84歳だった。8月に彼の功績を称えた楽曲集(▼)が発売される。
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Rick Derringer [Richard Zehringer]
(August 5, 1947 – May 26, 2025, aged 77)



オハイオ州フォート・リカバリー出身。弟Randy(a.k.a. Randy Z)等と17歳で結成したThe Rick Z Comboは、程なくRick and the Raidersに改名。元々はニューヨークのロックバンド=The Strangelovesが、2曲目のヒットを目論んでバックトラックを完成させていた "Hang On Sloopy" に、たまたま彼等の前座を務めたRick and the Raidersをスカウトし、Rickをニューヨークのスタジオに呼び寄せて、リード・ボーカルを歌わせた。

Bang Recordsから発売が決まると、Rickは敬愛するThe Venturesの曲="The McCoy"に因んで、The McCoysに改名し、自らもDerringerと名乗ることにした。1965年に見事全米No.1ヒットとなったが、これがレコード会社からの更なるヒットを望むプレッシャーに悩まされることとなった。

同曲の作曲者の1人で、レーベルの創業者だったBert Bernsが、1967年に心臓病で急逝すると、The McCoysはレーベルの呪縛から解き放たれた。バブルガム・サウンズのバンドというイメージからの脱却を目指して、Mercury Recordsと契約した。サイケデリックなアルバムを2枚発表したが、ブームには便乗できず解散した。



Zehringer兄弟とベース担当のRandy Jo Hobbsは、Johnny Winterのバンドに参加した。Johnny Winter Andがグループ名だったため、Johnny Winter And the McCoysと誤解されて、当初はバブルガム・サウンドのバンドと見なされてしまった。元McCoysの面々はバッキングに徹することを心掛けて、そんなイメージを払拭した。一方で、Rickはスタジオ・ミュージシャンとして、Steely DanからTodd Rundgrenまで、様々なセッションに参加した。



Hobbsは最後までJohnnyと行動を共にしたが、RickはEdgar Winterに請われて、Edgar Winter's White Trash以降のアルバムをプロデュースした。Edgar Winter Groupでは、Ronnie Montroseの後釜として正式なメンバーになった。アルバム “They Only Come Out At Night” からは、インスト・ナンバーの "Frankenstein" が全米No.1に輝いた。

アイドル張りのルックスに目を付けたレコード会社は、Rickにソロ・デビューを持ち掛けた。1973年にアルバム “All American Boy” を発表すると、Johnny Winter And時代の自作曲 "Rock And Roll, Hoochie Koo" をセルフ・カバーして、Hot100で最高位23位のヒットを記録した。



1970年代後半には、レコード会社の売り方に反発して、Derringerというバンドを結成して、よりシンプルなハード・ロックを目指したが、折からのディスコ・ブームに押し流されてしまった。



1979年ソロ活動を再開すると、Todd Rundgrenを共同プロデューサーに迎えて、“Guitars And Women” をリリースした。以降もコンスタントにアルバムを発表する一方、Carmine AppiceとDNAと言うバンドを組んでアルバムを一枚残したり、Cyndi Lauperのツアー・ギタリストを務めたこともある。Ringo Starr & His All-Starr Bandにも、たびたび参加した。



1980年代で忘れてならないのは、マネージャーの勧めで、パロディー音楽で人気を博したAl Yankovicのアルバム6作のプロデュースを行なったこと。大ヒットした "Eat It" のパロディーでは、Eddie Van Halenのギター・ソロを完コピしてみせた。

5月26日20時9分、フロリダ州オーモンドビーチの病院で、家族や友人に看取られた。77歳だった。


Edgar Winter Group's rare 5-man performance (left to right):
Rick Derringer (Bass), Edgar Winter (Keyboards), Chuck Ruff (Drums), Dan Hartman (Lead Vocal & Guitar), Ronnie Montrose (Lead Guitar)

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この記事へのコメント

  • SunHero

    Dogwoodさん、こちらこそ、いつもコメントありがとうございます。

    >ところで、誰がどこどこの病院で何時何分に亡くなった、、の情報はどうやって入手されるのでしょうか。気になる~

    訃報の情報源は、BING(Microsoft)やGoogle等のニュースサイト、CDショップ(割と早いのは 芽瑠璃堂)のメルマガです。
    詳細が知りたい時は、アーティスト名で検索します。英語のサイトの方が、病状・病名が明記されていることが多く、病名らしき単語をなぞって検索すると、日本語で何と言う病気か分かります。

    Derrigerの場合は、心臓のバイパス手術を受けて、療養中に容体が悪化したようです。ミュージシャンだけじゃなく、多くの欧米人は医療で手の施しようがないとなると、最期の時を自宅で迎えるのが普通のようです。
    日本の末期治療の在り方も、そうあるべきだと思います。日本の訪問診療をもっと充実させて、病院で働く医師の負担が軽減できない物かと思います。
    2025年06月07日 23:18
  • Dogwood

    こんにちは!毎度コメントありがとうございます。Rick Derringerが亡くなりましたか。R&Rフーチークー、アルコビッチのEat itなつかしいですね。ところで、誰がどこどこの病院で何時何分に亡くなった、、の情報はどうやって入手されるのでしょうか。気になる~
    2025年06月07日 12:59

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