一向に収束に向かう気配のないCOVID-19(coronavirus disease 2019:新型コロナウイルス感染症)は、イギリスや南アフリカで新たな変異種が見つかり、まだまだ猛威を振るいそうな勢いだ。ワクチンの有効性も副反応も十分検証されていない現状では、験担ぎにアマビエ様を模しただるまでも買って、疫病退散を祈るしかないのかもしれない。(困った時の妖怪頼み?)
各種GoToキャンペーンは、関係業界の救済になるどころか、
来年は何十年振りかで三が日を休業する商業施設が沢山ある。おせち料理の習慣は、そんな三日間の食生活を確保するために根付いていたものだと思う。初詣だって、遠くの有名な寺社ではなく、近所で済ませるのが普通だった。鉄道も大晦日の終夜運転を行わないとなると、SunHeroが子供の頃には当たり前だった静かな正月が戻ってくるようだ。
さて、巣籠もり正月の準備は万端ですか?ならば、クリスマス同様、大晦日も踊り明かしませんか?腹が減ったら、年越しそばでも食べて、夜が明けたら寝ましょう!(笑)
Now, Ladies and Gentlmen!
Let's celebrate New Year with one of the most successful funk bands across the universe.
Please welcome ーー Koooool &~ the Gang!
ところで、グループの要だったKhalis Bayyan(カーリス・ベイヤン)ことRonald Bellは、今年9月8日に米領ヴァージン・アイランドの自宅で急逝しました。享年68歳でした。半世紀以上に渡って兄Robert ”Kool" Bellと共にバンドを牽引してきた訳ですが、今後の活動はどうなるのでしょうか?ご冥福をお祈り致します。
因みに、Khalis Bayyanというのは、母親がムスリムだったことから、弟Kevinと共に改宗した際、母方の姓を名乗るようになったものです。プロデューサー・ソングライターとしてはムスリム名がクレジットされていたので、(SunHeroにとっては)21世紀になるまでずっと謎の人物(笑)でした。
オハイオ州ニュージャージー出身のベル兄弟は、10代の頃から地元のジャズ・ファンク・バンドを渡り歩き、気の合う仲間を集めてバンドを結成しました。1969年にOhio Playersなど北部ファンクのバンドを世に送り出したDe-Lite Recordsと契約し、シングル”Kool & the Gang”でデビューを飾りました。翌年には、バンド名を冠したファースト・アルバムをリリースしました。
リード・ボーカリストがいないという編成は、当時取り立てて珍しいものでは無かったようで、西海岸から登場したWarも同様のスタイルで、一足先に商業的成功を収めています。
プレイリストのトップには、当時の雰囲気が窺える自己紹介的な曲を持ってきました。恐らくライブでウォーミングアップ的に披露されていたと思われます。
彼等がようやく初ヒットを放ったのは、1973年のことでした。以降1974年にかけて3曲のヒットを放ちました。プレイリストの終盤に配しましたが、洗練とは程遠い土着なサウンドでした。
1975年にEW&Fがブレイクすると、ごった煮のような混沌ファンクから、タイトなリズムにパワフルなホーンが炸裂するメリハリのあるサウンドへ路線変更しました。(Spotify版プレイリストのみ)
ベル兄弟のもうひとつのルーツであるイスラム文化に題材を求めた“Open Sesame”(1976)からの選曲です。彼等流のファンクで、アラビアン・ナイトの世界を描いたトータル・アルバムに仕上がっています。
こうして振り返って聞くと、急に洗練されたサウンドに変化した訳では無いことが、ハッキリ分かります。ただ、EW&Fには二人もリード・ボーカリストが居たのに、彼等は相変わらずメンバーや女声コーラスが適当に歌っているスタイルでした。
詳しい経緯は全く知りませんが、リード・ボーカリストの必要性を感じたバンドは、恐らくオーディションでJames "J.T." Taylorを見い出し、より質の高い音楽性を目指して、外部プロデューサーを起用することにしたようです。そして、白羽の矢を立てたのが、ブラジル出身のジャズ・キーボーディストのEumir Deodato(エウミール・デオダート)でした。
彼は1970年代初頭に、インスト・ナンバーの「ツァラトゥストラはかく語りき」をHot100のTop3へ送り込んで、一躍脚光を浴びました。はっきり言って、映画「2001年宇宙の旅」の便乗商法でした。その後はクロスオーバーとかフュージョンとか呼ばれたジャンルで、意欲的に作品を発表するも、Return To ForeverやWeather Reportなどの台頭で、影が薄くなっていました。
1978年、Kool & the Gangは、デオダートのプロデュースでアルバム“Ladies Night”を発表し、タイトル・ナンバーをはじめ、2曲のTop10ヒットを放ち、ポップ・ミュージック界に華々しくカムバックしました。続く1979年のアルバム“Celebrate!”からは、”Celebration”がついに初の全米No.1に輝きました。
以降”J.T.”のボーカルを前面に押し出した都会的でメロウなダンス・サウンドで、毎年のようにTop40ヒットを放ちました。4作続いたデオダートのプロデュースでノウハウを学んだ彼等は、“In The Heart”(1983)からデオダートの右腕エンジニア=Jim Bonnefondとの共同プロデュースという形を取るようになりました。
新体制になって早々、バラードの”Joanna”が全米2位を記録するヒットになり、続くアルバム“Emergency”(1984)からは、ナント全7曲中、LPのA面4曲全てをTop10に送り込みました。しかも、アルバムからの4枚目のシングルは、2曲目のNo.1にはなり損ねましたが、再び最高位2位を記録しました。
この時期にバラードばかりが受けた背景には、黒人音楽にもエレクトロニクスを駆使したサウンドが持てはやされる時代が到来したことがあります。すなわち、従来の生身の人間が奏でるダンス・ナンバーが飽きられてきて、ボコーダーで声色を変えたり、生楽器では演奏できないようなリズム・アレンジが、とても新鮮に聞こえたのです。
“Emergency”がロング・ヒットしている間に、Kool & the Gangはセルフ・プロデュースに乗り出し、エレクトロニクスを取り入れたサウンドに挑戦し、アルバム“Forever”(1986)を完成させました。一応2曲のTop10ヒットを放ったものの、売れすぎた前作の後では、見劣りするセールスでした。EW&Fも同様のチャレンジをして失速してしまったので、時代の必然だったのでしょう。
そんなバンドに見切りを付けた”J.T.”は、ソロに転向するも、バンドのセールスにも遠く及ばず、表舞台で影が薄くなるばかりでした。バンドも新しいボーカリストを迎えて2枚のアルバムをリリースしました。結局1996年のアルバム“State Of Affairs”で、”J.T.”が復帰するも、時既に遅し。彼は再びソロ活動に戻りました。
バンドは寡作ながらも、21世紀にもオリジナル・アルバムを発表していますが、もっぱらライブ活動に注力しているようです。今やRonald Bellに代わって孫のAmir Bayyanが参加するなど、世代交代が進んでいますが、兄Robert "Kool" Bellはリーダーとして現役だそうです。
どういうわけか、Beach BoysもBee Geesも弟たちが先に逝ってしまい、長兄が頑張っています。アメリカに住んでいると、そういうことになってしまう風土なんでしょうか?
ちなみに、Ronald Bellは裏方に回ったとは言え、バンドのドキュメンタリー映画の制作に着手していたり、自分達の幼少期をモチーフにしたアニメ・シリーズに取り組んでいたそうです。実質的にバンドを切り盛りしていた彼を偲んで、もう一度プレイリストを聞き返してみては如何でしょうか?
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この記事へのコメント
SunHero
ギターで数曲やった後、ピアノに向かって、いきなり来ましたね。
”Maybe I Could Change”
COVID-19のおかげでKasim Sulton's Utopiaのツアーも延期になってしまいましたが、
果たして来日してくれますかね?
まだまだコロナウィルスが猛威を振るっています。
仕事の行き帰り、くれぐれもご用心ください。
Dogwood
Rundgren Radioの情報ありがとうございます。丁度KasimのLive始まりましたね!ありがとうございます。楽しみます。