【訃報】 How can I believe that Valerie Carter passed away?



シンガー・ソングライター&バック・コーラス・シンガーとして、1970年代から活躍していたValerie Carterが亡くなった。現地時間で3月4日だそうだ。2月5日に64歳になったばかりだった。近親者の意向で詳細は明らかにされていないが、噂ではドラッグ中毒による心臓発作らしい。2014年頃には、既に相当体調が悪かったようだ。

たちまち、多くの著名アーティストが、TwitterやFacebook等で弔意を述べた。彼女はバックアップ・シンガーとして、実に沢山の多彩なアーティストと共演していた。いつ頃の写真か分からないが、どこかのレコーディング・スタジオらしき所で、Jackson Browneと一緒に撮った写真を見た。笑みを浮かべては居るが、目は虚ろだった。

Valerie Carterは、19歳でHowdy Moonという3人組でレコード・デビューを果たした。その時のマネージャーがCBS Recordsとコネがあったことから、1974年にソロ・デビューを果たし、歌声に違わない美貌から、日本のCBS/Sonyも積極的に売り出した。1977年には、セカンド・アルバムもリリースされたが、デビュー時からウェスト・コースト・ロックとソウル・ミュージックの両方のテイストを兼ね備えていたのが災いして、音楽的な評価は芳しくなかった。

ところが、1970年代末、当時のCBS/Sony(現:Sony Music)が仕掛けたAORがブームになると、彼女の作品は再評価され始めた。以降、折に触れて再発を繰り返した。つい昨年にも、AOR40周年と銘打って、選りすぐりのAOR名盤が廉価再発された際、彼女のファースト・アルバム「愛はすぐそばに(期間生産限定盤)」も含まれていた。

ウェスト・コースト・ロック界の重鎮=故Lowell Georgeと、EW&Fの故Maurice Whiteが、当時のLPレコードで言うA・B面をそれぞれ分担する形で、アルバムが制作された。謂わば早過ぎたAOR路線だった。TV界での活躍の方が有名なJames Newton Howardがプロデュースしたセカンド・アルバムは、二兎を追う者は一兎をも得ずだった反省から、彼女の歌声を前面に出したシンガー・ソングライター(SSW)路線だったが、SSWブームは既に下火だった。

良くも悪くも、1990年代に入って、音楽評論家主導でAORが見直されるようになった。様々な書籍が援護射撃して、当時廃盤だった作品が、次々に復刻された。挙げ句の果てには、AORの起源は1974年発表のNick Decaroの「イタリアン・グラフィティー」はあたりまで遡るという定説まで出来上がった。

この第二次AORブームは、最初のブームを知らない若い洋楽ファンのハートをガッチリ掴んだ。評論家達は正しく教師然として、彼等に歴史の中に埋もれた「その手のサウンド」を発掘してきた。そうした評論家達は、対応の煮え切らないレコード会社に痺れを切らせ、自らレーベルを立ち上げ、書籍で取り上げた作品を、国内CDとして売り始めた。

海外でメジャーなレーベルが見限ったり、マイナー・レーベルの発売だった作品に関しては、原盤権を持っている個人やインディー・レーベルと交渉して、国内盤の制作・販売が可能だったからだ。CD復刻までの道のりは、地道な努力の積み重ねによるものだし、その恩恵に少なからず与っているSunHeroは、例え作られたブームとは言え、完全否定は出来ない。

それは、アーティストにとっても有り難い結果をもたらした。代表的な例が、Bobby Caldwellだろう。KC & The Sunshine Bandのヒット連発で、本社ビルを建ててしまったと言われるTK Recordsから、華々しくデビューしたものの、レーベルが1980年代半ばには、休眠会社となってしまった。しばらく鳴りを潜めていたと思ったら、インディーのSyndromeで細々とアルバムを発表し続けていた。

第二次AORブームでは、SonyとWarnerもブームの牽引に一役買っていたが、某外国タバコの広告でBobby Caldwellの曲が使われることになった際、手を上げたのは日本のPolydorだった。CMで脚光を浴びるようになると、アルバム制作費をPolydorが出し、レコーディングの一切合切はSyndromeが面倒を見るというシステムが構築されていった。

Todd Rundgrenも米Warner Bros.から一方的に契約を解除された後、しばらくは日本のポニー・キャニオンと契約して、アルバム制作を続けた時代があった。しかし、Valerie Carterの場合は、1996年に18年振りのソロ・アルバムを出したが、日本のSonyですら、旧作の便乗再発に終始しするだけだった。

その前年には、James Taylorの来日公演に同行して、見事な美声と美貌にSunHeroはメロメロになった。丁度真正面に彼女が居たので、耳でJamesの音楽を楽しみ、目は彼女に釘付けだった。AOR用語の「Light & Mellow」とは、この事かと曲解するほどだった。

さらに、1998年だったと記憶するJackson Browneの来日公演では、共作曲“Love Needs A Heart”をデュエットした。この時のValerieのはにかんだ表情が、とてもチャーミングだった。恥ずかしそうに振る舞う一方で、既にコーラス・シンガーに徹する覚悟をしていたのかもしれない。

逆算すると、あの頃既に50代だったことになる。謂わば「美魔女」だった。体のラインが露わな黒のワンピースを着て、演奏に合わせて優雅に身体を揺らせていた姿には、体調不良の片鱗も見受けられなかった。Karen Carpenterの例を挙げるまでも無く、過度なダイエットでもしていたのだとしたら、あの美貌こそが訃報の遠い前兆だったのかもしれない。

多くのミュージシャンに愛されながら、レコード会社にはそっぽを向かれてしまって、不遇なValerie Carter。彼女は生前、Jackson Browneの“That Girl Could Sing”とSteve Winwoodの“Valerie”は私の事よと、嬉しそうに語った事があるそうだ。後者は、SunHeroがカラオケに行った際、2回に1回は歌う、謂わば十八番だ。今度行ったら、彼女の冥福を祈りながら歌おうと思う。

<<追記1:6/21 3rd Albumが緊急リリースされます>>


<<追記2:Valerieも参加したコーラス隊のハーモニーが絶妙なJTのライブ>>

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