

育ての親にケビン・コスナーやダイアン・レインを起用した割には、地球での幼少期の成長過程が超人的な能力を持て余し苦悩する姿を描くことに終始していた。育ての親との関係が希薄で、この配役は非常に勿体無い気がした。むしろ、エイミー・アダムスが演じた新聞記者のロイス・レインの方が、初めは文屋としての好奇心からクラーク・ケントに付きまとっていたが、やがて彼の最良の理解者になっていくのが納得できた。だからこそ、育ての親にあんな大物を起用する必要なんてなかったじゃんという印象が強くなったのだろう。
だが、序盤の歯痒さは、終盤に向けてのスリリングな展開と迫力を一層増幅するのに貢献していたと思う。後半の1コマも見逃せないといった感じのスピード感は、圧巻だった。ひょっとしたら数分に一回位しか瞬きをしなかったんじゃないかと思うほど、目が疲れた。もはやエンドロールをじっくり見る余力など残っていなくて、カバンから目薬を取り出すと、即座に3D


面白かったのか、面白くなかったのか、どっちなんだ?と問われれば、目が疲れるほど見入ってしまったのだから、面白かったに決まってる。それに、子供ながらにTVシリーズの再放送を見ながら抱いた素朴な疑問に、一応納得できる回答が得られた。この手の辻褄合せストーリーでは、「スター・ウォーズ」のエピソードⅢのようなイヤ~な終わり方でもなかった。なのに、今後制作されるであろう続編を見たいという気にはなれなかった。
やっぱり天邪鬼な性格なんですかね?「スターウォーズ」の時は、不快な終わり方だったからこそ、第一作であるエピソードⅣから、もう一度観たくなった。「スーパーマン」の場合は、これで地球に居場所を得て、その後の武勇伝に繋がって行くんだろうと納得できた。SunHeroにとっては、それで満足だった。多分そういうことなんだろうと思う。スーパーマン・ファンにとって本当に面白いのは、恐らく次作以降だろう。

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